プロローグ 覚醒の夜
クリックで映像崩壊エフェクトを再生
推しの名前で埋め尽くされたチャット欄が、目まぐるしく右へ左へと流れていく。2025年3月2日──ホロライブ6周年記念配信のフィナーレ。〈あなた〉はモニターの前で手を止める暇もなくキーボードを叩き、頬は興奮で熱い。投稿音が重なり合い、部屋の壁を震わせるように響いていた。
ステージ中央には、スポットライトを浴びた36名のメンバー。最後の楽曲が終わり、観客の歓声を模したSEが爆音で流れた瞬間、〈あなた〉の胸は風船のように膨れ上がる──もう終わってしまう。だが、同時に抑え難い満足感があった。これだけの祝祭の日をリアルタイムで見届けられたのだから。
画面の向こうでメンバーは手を取り合い、深々と一礼する。大量の紙吹雪がキャノン砲から射出され、宙を舞う。白、青、赤、そして金。ライトが反射して粒子が星屑のようにきらめく。
そのときだった。
――ドン……ッ。
低い轟音。ライブ映像の明度が一瞬で跳ね上がり、黄金色の閃光が強制的に画面全体を塗りつぶす。イヤホンから爆発的なノイズが走り、〈あなた〉は思わず目を閉じた。
〈あなた〉「ッ!?」
瞼の裏にも残光が浮かぶ。耳がジンと痺れる。慌ててまばたきを繰り返すと、映像はすでに崩壊していた。メンバーの輪郭が砂粒のように崩れ、下から上へ逆流する砂時計のように流れ去っていく。 歓声もBGMもフェードアウトし、無音の高周波だけが残る。それは"ピー"と持続する叫びにも似た音で、〈あなた〉の鼓膜を責め立てた。
〈あなた〉「配信トラブル……? いや、まさかサーバーが落ちたのか?」
震える指で再生バーを戻そうとする──が、動画のシークバー自体が消滅している。タイムスタンプもチャットも、画面からは一切のUIが奪われていた。ただ黄金の粒子が舞い続けるだけ。
ふいに胸がざわめく。喉が乾き、妙な寒気が背骨を駆け上がる。長年見続けた配信なのに、突然「ここは自分の居場所ではない」と突き放される感覚。孤立無援の宇宙空間に放り出されたような虚無。
──気づけばベッドの上で跳ね起きていた。
闇にほの青いLEDランプだけが灯り、時刻は 2:34 a.m.。薄手のTシャツは汗で肌に張り付いている。呼吸が荒い。さっきの光景は夢か現か。目蓋の裏に刻まれたノイズの残像が、まだゆらゆらと揺れている。
枕元のスマホがひときわ高い通知音を鳴らした。見覚えのないアプリアイコン──漆黒に虹色の"Q"を象ったロゴ。その下に小さく"HoloQuest"の文字。
〈あなた〉「……インストールした覚えはないぞ?」
解析好きの性分で、まずは不審アプリを警戒すべきだという理性が働く。しかし指先はそれを無視してアイコンをタップしていた。自分でも驚くほど自然に。
画面が暗転し、深海の底から聞こえる潮騒のようなSEが流れ出す。次いで、満天の星々を思わせる蒼いホログラム空間が開いた。そこに、長いツインテールを揺らす一人の少女が空中に立っている。
A-chan──運営スタッフとして裏方配信に登場する、あの頼れるお姉さん。いつもより少し輪郭が柔らかく、けれど瞳は真剣そのものだった。
A-chan
「こんばんは、ホロナイト候補生。──いきなりだけど時間がないの。ホロライブ・ネクサスが"虚無の侵食"を受けている」
声は澄んでいたが、波打つ音声ノイズの向こうでわずかに震えているようにも聞こえる。
A-chan
「メンバーの想いも、あなたたちファンの思い出も、今この瞬間から削り取られていってる。でも、あなた自身の"推しへの想い"はまだ消えていない。その純粋な熱量こそが、ネクサスを救う鍵」
〈あなた〉は言葉を失った。ホロライブへの情熱を持つ者なら誰でも知る「ネクサス」という概念。それは、メンバーとファンの記憶・感情・配信アーカイブを束ねた巨大な集合意識──ホロライブ全体の魂の蓄積とも呼べる場所だ。そこが侵食? 記憶を失う? だとすれば、あのフィナーレの映像崩壊も納得がいく。
A-chan
「お願い、力を貸して。あなたの"推しへの想い"を、私たちに──いいえ、世界に聞かせて」
A-chanは両手を胸の前で組み、深く頭を下げた。いつもの飄々とした姉御口調ではなく、切実な祈りを込めるように。
スマホ越しにもわかる真摯な眼差しに、胸の奥がジリ、と熱を帯びる。恐怖や混乱がなくなったわけではない。しかしそれ以上に湧き上がる感情があった。
――推しを、ホロライブを、救いたい。
〈あなた〉は息を飲み、小さく頷く。するとA-chanの唇がほころび、ホログラム空間に淡い朝焼けが差し込むような光が満ちた。
A-chan
「ありがとう……! では招待コードを送るわ。"ホロナイト"としての第一歩を踏み出して」
スマホ画面に白銀の紋章が浮かび、認証システムらしきアクセスバーが走る。指先が震える。それは恐れではなく、これから始まる"冒険"への高揚だった。
コード入力を終えた瞬間、視界の端で部屋の照明がフッと落ちる。空間に粒子が舞い、床が水面のように揺らぎ──意識は一気に引き込まれた。
潮騒の音が急速に遠ざかり、かわりに耳へ吹き付けるのは氷雪を割る暴風の唸り。足元には見慣れぬ銀のブーツ、冷気が頬を斬る。次に目を上げたとき、そこは粉雪が渦巻く神秘の山岳、ミスティック・マウンテン。――〈あなた〉の戦いは、すでに始まっていた。